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物質とデータ、そして物語の限界と人間の限界。

最近、物質とデータの関係について考えます。

 

そろばんの珠そのものは物質だけど、そろばんはデータを保持することができます。

 

それはそろばんの珠の配置、つまり「物質の状態」が「意味」と対応しているからです。

 

同様の構造は他の物質にも見られます。

 

メモリの中でデータを保持する電子は、0.7V以下で0、それ以上で1を意味する、と聞いたことがあります。つまり「一定量の電子の粒が集まっている状態」のことを1とし、そうでない状態のことを0としているということになります。

 

真空管も、電子将棋も、日時計も、脳も、ありとあらゆるデータの根底には物質の状態が潜んでいます。

 

ですから、どんなに人間よりすぐれた意識が存在しようと、それも物質の状態に根ざしていると考えることができますし、裏を返せば、脳よりも優れた緻密な物質で「状態と意味の対応」を考えることができれば、「意識よりも優れた知性」を実装することが可能なのではないか、とも思うのです。

 

こういった妄想は生きている間に実現できるかわからなくて悲しいのですが、SFならそれを擬似的に楽しめるのでSFは大好きです。しかし最近のSFは現実に追いつかれ気味で、現実と空想の差異が小さくて楽しくないとも思っています。

 

Singularity以降の人類を描くSFを期待しているのですが、ジョジョの荒木先生が岸部露伴をして云わしめた「リアリティだよ!リアリティこそが作品に生命を吹き込むエネルギーであり、リアリティこそがエンターテイメントなのさ」という言葉がいやにひっかかります。

 

余談ですが、常々わたしが思っているのは、「物語というものは、物語内で設定したルールに則っていれば何を起こしても良い」という原則で、特にミステリーにおいて顕著なこの傾向は、「はじめにその世界の公理を説明して、要所で公理を応用した展開を見せつけて読者を驚かせる」という良くある技の説明に適しています。つまり、これこそがリアリティの正体であり、「その世界でありそうなこと」を緻密に描くことが読者の納得と驚きにつながると思うのです。

 

少し横道に逸れましたが、「Singurality以降の人類」という公理を元に演繹される「ありそうなこと」をいかに作者が知恵をしぼったとしても、大半の読者にとってそれは共感不可能であり、それを共感可能な演出へと変換することも骨が折れ、とてもじゃないですがSingurality以降の世界を物語にして商業ベースに乗せるのは無理なんじゃないかと云う想いがひっかかりの原因なのだなと思い至るのでした。

 

つれづれとくだらないことを書き綴りましたが、「人間の限界」というものをひしひしと感じる今日この頃です。