心のアーキテクチャについて
社会的所属がないことは、そんなに不安なことか? - 空想島(6畳半)より
みなさん、なにかしらの「自己肯定感」がないと不快っぽいですね。
なんでですかね。
「あの人みたいに綺麗になりたい」
「起業家としての俺かっこいい」
「科学が楽しい」
「禅の神髄を極めたい」
「あいつより稼いでいる」
そういった「心の支え」を何かしら用意しないと人は心が不安定になる傾向があるっぽいですね。
「心の支え」つまり「信仰」「信条」「宗教」「信念」って表現したらいいのかな。
自分の中に「ルール」を設けることで、人はそれを勝利ひいては幸福への指針としているっぽい。
どんなルールを設定するかによって意思決定とか性格とか趣味が芋づる式に構築されていくと思うんだけど、あなたはどんなルールをどのように設定していますか?
たとえば、戦略の階層を個人向けに修正 : 地政学を英国で学んだに見るように「抽象的な信念から具体的な手段へと階層構造を作る」というのがひとつのライフハックとしてある。
「暖かい家庭を作る」という信念(大分類)を持っていたとして、「仕事を頑張る」という手段(小分類)を選んだとき、子どもが死んだり妻が死んだ場合、信念を成立させる前提が崩壊するために精神の不安定感は増すと考えられる。
この例から示唆したいことは、「信念の粒度を細かくすると危うい」ということだ。信念に失われやすい要素を含有させると、長い人生の間で何度も何度も傷つき動揺するハメになるだろう。
社会的所属がないことは、そんなに不安なことか? - 空想島(6畳半)で言う「社会的所属」も信念の構成物なんだろうな、と思った。
福島が大変なことになっているので鼻血報告アプリ作りましょうか
こんな記事が目にとまりました
『美味しんぼ』作者・雁屋哲氏「福島に行って鼻血が止まらなくなった。東北地方の海産物は食べられなくなる」 - 真実を探すブログ
これは由々しき事態ですね、どの地域でどのくらいの人が鼻血に苦しんでいるか定量化して早急に対策を打つ必要がありそうです。
Foursquareのように鼻血がでたらその位置情報をチェックインするアプリなんてどうでしょう。単位時間中の鼻血ユーザー数をその地域の総DLユーザー数で割れば「鼻血指数」が統計的に有為な感じで出ること請け合いですね!!!
追記
ギャグです。マサカリを投げないでください。
物質とデータ、そして物語の限界と人間の限界。
最近、物質とデータの関係について考えます。
そろばんの珠そのものは物質だけど、そろばんはデータを保持することができます。
それはそろばんの珠の配置、つまり「物質の状態」が「意味」と対応しているからです。
同様の構造は他の物質にも見られます。
メモリの中でデータを保持する電子は、0.7V以下で0、それ以上で1を意味する、と聞いたことがあります。つまり「一定量の電子の粒が集まっている状態」のことを1とし、そうでない状態のことを0としているということになります。
真空管も、電子将棋も、日時計も、脳も、ありとあらゆるデータの根底には物質の状態が潜んでいます。
ですから、どんなに人間よりすぐれた意識が存在しようと、それも物質の状態に根ざしていると考えることができますし、裏を返せば、脳よりも優れた緻密な物質で「状態と意味の対応」を考えることができれば、「意識よりも優れた知性」を実装することが可能なのではないか、とも思うのです。
こういった妄想は生きている間に実現できるかわからなくて悲しいのですが、SFならそれを擬似的に楽しめるのでSFは大好きです。しかし最近のSFは現実に追いつかれ気味で、現実と空想の差異が小さくて楽しくないとも思っています。
Singularity以降の人類を描くSFを期待しているのですが、ジョジョの荒木先生が岸部露伴をして云わしめた「リアリティだよ!リアリティこそが作品に生命を吹き込むエネルギーであり、リアリティこそがエンターテイメントなのさ」という言葉がいやにひっかかります。
余談ですが、常々わたしが思っているのは、「物語というものは、物語内で設定したルールに則っていれば何を起こしても良い」という原則で、特にミステリーにおいて顕著なこの傾向は、「はじめにその世界の公理を説明して、要所で公理を応用した展開を見せつけて読者を驚かせる」という良くある技の説明に適しています。つまり、これこそがリアリティの正体であり、「その世界でありそうなこと」を緻密に描くことが読者の納得と驚きにつながると思うのです。
少し横道に逸れましたが、「Singurality以降の人類」という公理を元に演繹される「ありそうなこと」をいかに作者が知恵をしぼったとしても、大半の読者にとってそれは共感不可能であり、それを共感可能な演出へと変換することも骨が折れ、とてもじゃないですがSingurality以降の世界を物語にして商業ベースに乗せるのは無理なんじゃないかと云う想いがひっかかりの原因なのだなと思い至るのでした。
つれづれとくだらないことを書き綴りましたが、「人間の限界」というものをひしひしと感じる今日この頃です。
海外クラウドソーシングの記事を読んだけどやらない僕
2014年あけましておめでとうございます。
これを読みました。
「クラウドソーシングは成功確率ガー」
などと聞きかじった知識でアーダコーダ言う前に
「月に1万円までなら外注勉強代に使える」とか定量的に決めてやっちまったほうがカッコいいなと思いました。
【要点まとめ】
・oDeskは最低1件500円なので月1万円の予算なら20件頼める
・やりたいけどやれてないことを列挙する
・タスクを分析して知識不足で勉強に時間がかかったりハマりそうな作業を外注
・細分化もダルいし金払うのも抵抗あるので「本当にやりたいか」がわかる
・oDeskに捨てるつもりで何個か頼んで感覚を使む←ここ以外と言い訳して踏み出せない
・英語が通用するかどうかも含めて練習は必要
・意外と簡単なので自分の仕事も奪われてしまわないか不安になる
oDeskのサイトを開いて読むのがめんどいし、今の案件が忙しいし、お金払って失敗するのが怖いし、お金カツカツだし、なんだかんだナアナアで僕はきっとやらないでしょう。
僕と同じように、そうやってなんとなく日々を過ごしながらゆっくり腐っていく自分をメタな視点で観察しながら、心にしこりを抱えてる人は多いと思う。